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  愚者のたわごと 第3回

平成11年12月発行
 
 人生に浮き沈みはつきものである。駅前再開発事業として脚光を浴び、バブル経済の崩壊で地獄を見た「エルト桜井」は、まさにその典型であった。同じ事業の中にありながら、その前半と後半で毀誉褒貶のかくも甚だしい評価を受けたのは初めての人生経験だった。  

「駅前をワヤにしよった」「駅前をゴーストタウンにした責任を取れ」「再開発は大失敗」「ビルは二束三文や」「えらい借金やてぇ、倒産するやろ」などなど、バブル崩壊でエルト桜井が直面したテナント退店の危機に対し、浴びせられた非難、批判は痛烈であった。 まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。

 このビルを奈良新聞が「幽霊屋敷」と名づけた。市民がそう言った訳ではない、どうやら某議員がタメにするため記者にそう言ったのが記事に使われたらしい。それ以来悪意を持ってエルト桜井を語る人に代名詞として使われてきた。テナントからは「私たちは幽霊屋敷の住人か」と叱られるし大迷惑であった。

 驚いたのは「南部対策特別委員会」で再開発推進の立場にいたはずの一部議員によって政争の具にされたことだ。あげくの果てが「市から公金の不法支出がされた」のでっち上げ住民監査請求となり、これが却下されると損害賠償訴訟におよぶ始末で、ついには被告人にされてしまった。

 この裁判に原告が証拠として提出したのは桜井都市開発株式会社の決算書のみだったが、これを社長だった私が部外者に渡したのは当時議員だった谷奥昭弘氏だけであった。それが一人歩きしたのだろうか、なんとも不可思議だ。

 テナント退店後の苦しみは言語に絶するものがあった。銀行からは借金の返済とその計画について厳しい指導があった。そうなれば再開発を共にした人から同情はされたが、積極的な協力を申し出る人はいないし、それを求めることも出来なかった。

 しかし手をこまねいているわけにはいかなかった。東は横浜、西は福岡まであらゆる再建の可能性を求めてテナント探しに東奔西走した。商業コンサルタントへの依頼要請は八社、紹介を受け交渉した量販店、物販店十八社、非物販関係十四社、なりふりかまわず遊技場、結婚式場、葬儀場までも考えた。大型書店も四社と交渉した。しかしいずれも桜井市の商圏が狭いということで不調に終わった。

 そのうち「やまかつ」が一階の近鉄跡に入る話が進んだ。しかし、これも決まるまでが大変だった。生鮮三品を扱うスーパーであるため、商工会等の同意や、入店条件など交渉開始から成立まで一年近くかかった。

 二階は中堅の大型書店が入店を希望、約六ヶ月間交渉を続けた。しかし、午後九時以降の営業は許されないとする大店法の規制に基づく商工会等の指導の壁が破れず結局不調となった。 最悪の不況下でテナントを確保することが、テレビを買うようなわけにはいかない至難の業であることを心底知らされる苦渋の毎日であった

 
  芝 房治
(日本文化の源流
 桜井を展く会幹事長)
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